飴玉がりがり

輪るピングドラムを噛み砕く記録

ご挨拶

初めまして。かずはると申します。

 

輪るピングドラムを愛してやまないただのアニメ好きです。

ピンドラは2011年当時にリアルタイムで観ていました。

別名義で時々同人活動をしているんですけれど、それでも語り切れないものをweb上に記録しておこうかなあ…と思い、ブログを始めてみました。

とはいえ、文章書くのは死ぬほど苦手なので、気が向いたときに更新していくスタイルになりそうです。

渡瀬眞悧が好きなので、彼にまつわる事柄から話題を広げていけたらなあと思います。

何から書こうかね。

 

よろしくお願い致します。

 

※ブログ記事にはストーリーのネタバレが満載…というか、1回以上観ている前提で書いているので、このブログをご覧になる際はアニメ本編を最後まで全部視聴することをお勧め致します。

りんごの享受とその代償<輪るピングドラム考察>

輪るピングドラムにおけるりんご、つまりピングドラムの授受がどのように行われていたのかをきちんとまとめたことがなかったので、ない頭ひねって頑張ってまとめました(小並感)。

巷では「りんごの計算」と呼ばれているものもあるようですが、ここでは計算ではなく「循環図」として書いていきたいと思います。

 

まず前提条件として、

a.人間が誰かに愛を渡す場合は、何かしらの代償を負うことになる。

b.愛を渡す人がもらった人から何かをもらい補うのは有償の愛(仮)、愛を渡す人が代償として自らを犠牲にするのは無償の愛

c.ピングドラム=無償の愛という仮定

 

ということを踏まえて考えていきたいと思います。

なお、輪るピングドラムは話数順だと時系列が飛び飛びでわかりづらいため、今回は時系列を並び変えて説明します。つまり、いきなり幼少期(大ネタバレ)から入ります。

 

1.幼少期

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【図1】幼少期の愛の授受

愛の授受、つまり運命の人との出会いはそれぞれ

  • 冠葉→晶馬(24話、箱の中の出来事)
  • 晶馬→陽毬(20話、こどもブロイラー回)
  • 陽毬→冠葉(21話、冠葉の父親の葬式時)

の時であったと仮定します。

先ほどの前提条件を踏まえると、彼らはそれぞれに愛を渡す代償として家族になったと言えるでしょう。

24話のクリスタル・ワールドで晶馬が「僕たちは始まりから罰だったんだ」と言っていますが、それは愛をもらう代償、つまり罰として家族になったことを指すのではないかと思います。

 

また、この時、愛をもらった陽毬と冠葉は自覚があるかと思われますが(マフラーと絆創膏のエピソードがそれ)、もらった晶馬と愛をあげた側の当人たちにはそれぞれ自覚がないんですよね。(もらった側の晶馬については具体的なエピソードとしての描写がない。あげた側は「(マフラーを)まだ持ってたのか」「与えた…?私が?」等とセリフ描写されている。)

終盤で家族体制が崩壊し愛を失った三人が、再び愛を受け渡すには改めて各々が自覚することが必要になると想定されますが、その話はまた最終話の項あたりで。

 

2.一度目の陽毬の死(1話)

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【図2】一度目の陽毬の死(1話)における愛の授受

三人が家族として揃うことで循環していた無償の愛。その愛の循環は、陽毬の死によって途絶えることになります。

また、陽毬の病気というものは、ある種「罪を犯した高倉家の罰」を象徴していたようにも思います。少なくとも晶馬と冠葉はそう思っていた。12話の「メリーさんの羊」のたとえ話がその説明的役割だったのでしょうけど、抽象的すぎて逆にわかりづらいのがやや難点…。

高倉家の罰を背負って死ぬ運命の陽毬。そこに現れたのがプリンセス・オブ・ザ・クリスタル(以下、プリクリ様)ですよ。

 プリクリ様は冠葉の命代償に、一時的に陽毬の寿命を伸ばします。そして「ピングドラムを探せ」と命令します。

あれ、ちょっと待ってくれ。前提条件bを踏まえるとこれは冠葉が陽毬に命を差し出すのは無償の愛、つまりピングドラムでは?

そうなんだよね。確かに冠葉は自らの命を代償に陽毬の命をつなぎ止めたかもしれない。しかし、三人で愛を循環させるには、陽毬が冠葉に愛を渡す必要がある。なのに冠葉は愛を得る代わりに陽毬に自分の命を差し出している。間にプリクリ様が噛んでいるとはいえ、結果として二人の間の愛の授受はあくまで有償にすぎないんですよね。冠葉自身は陽毬が存在してくれるだけでいいと言いますが、陽毬が生きていてくれること自体が冠葉にとっては愛を得ている状態なのかもしれない。

何せプリクリ様自身がピングドラム探しの命令を取りやめていないので、陽毬の命を引き延ばしている間に、本当の「ピングドラム」を探す迷走は続きます。

 

 3.二度目の陽毬の死(13話)

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【図3】二度目の陽毬の死(13話)における愛の授受

冠葉の命を代償に、プリクリ様の力で陽毬の命を一時的に延ばしていますが、それにも期限が訪れます。

 

次に冠葉は金と引き換えに、眞悧から陽毬の治療薬を得ることになります。

一見、冠葉と眞悧との取引のようにも思えますが、全話観た方には眞悧がプリクリ様と同種の存在、概念的存在であることがわかるかと思います。つまり、間に眞悧が噛んでいるとはいえ、先ほどの2の項と同様に、これは冠葉と陽毬との間の有償の取引なのです。

代償は金そのものではありません。その金を得るために企鵝の会に加担し、犯罪に手を染めることがここでの代償なのです。

冠葉は罪を犯すことと引き換えに陽毬の命をつなぎ止めている。これが無償の愛であるはずがありません。そもそも眞悧はそれ(無償の愛を否定すること)が狙いなのでしょうけど…。

では陽毬の命を救い、ピングドラム/無償の愛の享受の円を完成させるにはどうすればいいのか。悲しいかな、冠葉がその身を犠牲にするだけではダメなのです。

ここで登場するのが、お待たせしました、荻野目苹果です。

 

4.運命の乗り換えー兄妹たちのピングドラム(24話)

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【図4】運命の乗り換え(24話)における愛の授受

 クリスタル・ワールドで晶馬・冠葉・陽毬は、改めて三人の始まりを思い返します。確かに愛は循環していた、と。しかし、死ぬはずの陽毬が愛を渡すには、その命の代わりとなるものが必要です。その代償として名乗り出たのが苹果です。苹果は「運命の乗り換え」のシステムを利用して、陽毬の命を救います。こうして高倉兄妹はピングドラムを得ることができましたが、高倉家が背負う罰と呪いの炎の代償はまだ残っています。

 

5.運命の乗り換えー代償の呪い(24話)

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【図5】運命の乗り換え(24話)における呪いの授受

この時点で

  • 陽毬ー高倉家の罰(2項参照)
  • 苹果ー運命の乗り換えの代償(呪いの炎)

が依然として残されています。

 冠葉は陽毬が背負うはずだった高倉家の罰を譲り受け、ガラス片となって消えていきます。もしかしたら、これが陽毬に愛を渡し続けた代償だったのかもしれません。

「これは、僕たちの罰だから」

本来は三人で…いやそれ以前に自分一人で背負うべきだった罰を一緒に背負ってくれた苹果への感謝。そして愛を告げる代償として、晶馬は苹果が受けた「乗り換えの代償」の炎を譲り受け消えていきます。

 

6.運命の乗り換えー四人のピングドラム(24話)

 

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【図6】運命の乗り換え後(24話)の愛の授受

晶馬が苹果に愛を告げたことにより、「晶馬→陽毬」だった愛の循環が「晶馬→苹果→陽毬」と変化します。結果として冠葉と晶馬は消えてしまいますが、二人が存在していた証は陽毬の額の傷、苹果の手首の火傷の跡として残りました。塵一つ残せないわけじゃないんだよ、眞悧くん。

先の前提条件を踏まえると、みんな一度はその代償として犠牲にしているので、これは無償の愛…つまりピングドラムの円なのではないでしょうか。

 

クマのぬいぐるみから出てきた手紙は、ペンギンたちからのスペシャルなご褒美だったのかもしれないですね…。あのクマのお腹は、三人で暮らしてるっていう証だもんね。

 

結局冠葉と晶馬は親の呪いを背負うことになってしまうのか…とも思うのですが、運命の導くままに無関係の者が理不尽に罰を受けるより、自分たちが罰を甘んじて受ける、その選択を自らしたことに意味があるのかな、と感じました。どうしても淋しさが拭えないのが、この作品の良くも悪くも特徴だなと思います。書き込んでてまた淋しくなってしまいました。(笑)

しかしうまく説明できただろうか…。心配である。

 

こちらも参考に↓

ピングドラムってなんだろな<輪るピングドラム考察> - 飴玉がりがり

 

プリクリ様解剖学<輪るピングドラム考察>

 解剖学とは大げさなことを言いましたが、要はプリンセス・オブ・ザ・クリスタル(以下、プリクリ様)の正体について、私自身が考えていることをまとめておこう、というのが今回の記事の趣旨です。

もちろん、原作ではその正体については明確に語られておりませんので、あくまで一個人の意見としてお読みください。

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端的に言えば、「陽毬と桃果のハイブリット人格」なのだろうなあと思っています。

プリクリ様はたびたび「闇兎」という言葉を口にするんですが、闇兎の正体は16年前の事件の際、眞悧と対峙した桃果しか知りえないんですよね。

 

 ではプリクリ様の正体は桃果なのか。もちろんそう考えても間違いではないとは思います。だって原作で明言されてないんだもの。

ただ、やはりプリクリ様の人格は陽毬の人格をベースに形作られているのではないか。そう感じるような点がいくつかあるのです。

 

12話や20話などで、たびたび姫言葉(「~なのじゃ」)になること。

そもそも「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」ですよ。クリスタルには「水晶」や「クリスタルガラス(の略)」といった意味があるそうですが、へえ…水晶…へえ…。

陽毬にとっての運命の人が晶馬であることは全話ご覧になった方はもうご存じかと思いますが、もしかしたらプリンセス・オブ・ザ・クリスタルは「晶馬にとってのお姫様でありたい」 という陽毬の願望の象徴なのでは…と思ったりします。全部憶測ですけど。

余談ですが、24話のクリスタル・ワールドで冠葉に近づくにつれてドレスがぼろぼろに破け裸になる陽毬のシーン、以前は「心を裸にしていく」という意味だったのかなあ…と思っていたのですが、ふと、晶馬のお姫様になることではなく冠葉へ愛を返すこと(晶馬のお姫様にはならない道)を選択した意志の表れなのかなあ…と思いました。数日前に。

また、スタッフチームの設定の話をすると、クリスタル・ワールドのバンクシーンの序盤で登場する青い星(?)は「陽毬の星」と呼ばれているそうな。(出典:『アートオブピングドラム』/幻冬舎コミックス)

同書の柴田勝紀氏のインタビューによると、バンクシーンは「陽毬の心の中に入っていく」というイメージのもとに構想されたという。

 

やはり陽毬がベースなんだよなあ。でも指令はおそらくペンギン帽である桃果が出している。 

 

そう考えると、9話の「ダメ」を言ったのは桃果の意思なのか?とも思うのですが、9話に関して言えば、あの回は一貫して陽毬の人格(陽毬の夢のなか、眞悧と陽毬との対話・交渉)だったようにも感じ取れるので、そこは濁しておいていいのかもなあ…とは思います。

個人的にはどちらでもいいし、どちらでもおいしいです。

 

※図で用いたパソコン用語はあくまでイメージしやすいように例えたものなので、厳密に正しい意味ではないかもしれません。ご了承ください。

 

忘れ去られた彼と忘れられない彼女<輪るピングドラム考察>

輪るピングドラムという作品は、対照的な二人のコントラストが美しい作品だなあと思っています。組み合わせは様々ありますが、とりわけ私は眞悧と桃果が好きです。

 

今回はその眞悧と桃果のうち、「忘れる」というテーマに絞って考えていきたいと思います。

 

「忘れ去られた彼」とはどういうことなのか。

そのヒントになったのは「写真」でした。

 

21話のピングウェーブ、もとい鷲塚医師の夢の中で、彼は机の上に置かれた「第36次南極環境防衛隊」の写真のなかに渡瀬眞悧の姿を見つけます。

しかし、12話で眞悧が鷲塚医師の机に置いた際は、そこに眞悧の姿はない。 

写真というものは時間の一瞬を切り取って一枚の紙の中に閉じ込めたものであり、「過去」を象徴するものだと私は思っているのですが、その「過去」に存在していたはずの彼がいない。眞悧のことを知っているはずなのに、鷲塚医師の記憶には彼がいない。

これがどういうことなのかを改めて考えてみると、彼は「忘れ去られた存在」である、ということを示しているのだろうなと推測しています。

 

また、20話の陽毬の手紙のなかには

「私が世界にいたことをおぼえてくれているひとがいるんだもん。」

という一文があります。

「透明になる」ということは「世界から消えてなくなる」ということ。こどもブロイラーのシーンでは繰り返し言われていますが、何も「世界から消えてなくなる」ということが肉体の死とは限らないと思うのです。誰かの世界、つまり記憶にも残らない。そういうことも示唆しているのではないかと思うのです。

なお、眞悧がこどもブロイラーで粉々になった透明な存在である(のでは)という話はこちらの記事で書いています。↓

こどもブロイラー<輪るピングドラム考察> - 飴玉がりがり

透明な存在のなれの果て<輪るピングドラム考察> - 飴玉がりがり

元々いなかったものがぼうっと浮かび上がってきたのではなく、存在していたものが記憶の中から忘れ去られた。初見で話を追っているとなかなかそうとは気付かないんですけど、全部観終わったあとで振り返ると、そういうことだったんだな、と気付くことができるような気がします。

 

対して荻野目桃果には、「カレーの日」というものがあります。毎月20日に家族でカレーを食べる、荻野目家に長年存在する通称「カレーの日」。元々は桃果の月命日に彼女を偲ぶ目的で作られたのでしょう。

ピンドラの一部のファンの間でも、今なお実施している方をお見受けしますが、毎月って結構な頻度ですよ。それも劇中では16年。おそらく今後も実施していくであろうカレーの日。実施している以上、彼女を忘れるわけがありません。

 

忘れ去られた彼と忘れられない彼女。劇中における対照的な二人としてよく取り上げられる眞悧と桃果ですが、具体例を挙げて検証するのもまた楽しいですね。

対照的な二人の話は、また何か見つけたら書きたいです。

 

 

ピングドラムってなんだろな<輪るピングドラム考察>

ピングドラムの正体って何なのでしょう。6年くらいずっとピンドラを追い続けているんですが、実ははっきり自分の中で結論づけたことはないんですよね。

 

劇中終盤で言われる「愛の話なんだよ」という台詞からもわかるように、おそらくピングドラムは「愛」なのだろうなあ、とまではなんとなくわかります。

でも愛っていろいろあるじゃないですか。どんな愛なんだ、ピングドラム

 

全話を通して繰り返し観た現在、率直に思うのは 

「見返りを求めない愛」つまり、無償の愛なのだろうな、ということ。

 

劇中で繰り返し表現されるんですよね、「報酬」やら 「代償」やら。

報酬は与えた本人にプラスのものが返ってくる。代償は与えた本人にマイナスのものが返ってくる。特に前者は眞悧が、後者は桃果が口にしているような気がします。 

 

 おそらく眞悧のなかにも「愛」という概念はあるんですよ。しかし彼の思う「愛」は与えたものから報酬が返ってくればこそ、という認識なのでしょう。報酬があるから代償に耐える価値がある。なので、冠葉のような「報酬がないのに代償を払い続ける行為」に懐疑的なのでしょう。そんなもの、存在できるわけがないと。

また、 無償の愛を無限に供給できるのは神様かそれに近い聖人くらいのもので、通常の人は愛を供給し続けていたら枯れ果ててしまう。それこそ、劇中終盤の冠葉のように。人間である以上、愛を与えるには何かしらの「代償」が必要なのだと思います。

 

ところで、渡瀬眞悧はある種、病的な自己愛の持ち主だと思うのです。自己愛といっても、決してありのままの自分が好きなのではない。通常、人は誰しも「自己愛」というものを成長の過程で育みますが、それが病的な状態になると誇大妄想ばかりが広がり、根底では等身大の自分を愛せずにいる。(参考:ナルシシズム - Wikipedia)

彼は帽子の彼女(桃果)に恋をしていると言っていますが、「今度こそ見せつけてやりたいんだ。帽子の彼女に、世界が壊れるところを」と言ってるあたり、利己的な感情で彼女を見返したいことを「恋をしている」と表現してるのではないかなと思うんです。それは自分の為であって、決して桃果の為ではない。利己的な感情で動いているうちは、それは愛ではなく恋なのかもしれない。

 

眞悧は13話で桃果に「二人でピングドラムを探すのさ」と話しています。

彼は誰よりもピングドラムの存在を求めていて、誰よりもピングドラムの存在を否定したいのだと思うのです。自分が透明な存在になったのは、生前にピングドラム(無償の愛)を与えられなかったから。それが今の自分の存在を証明するものだから。ピングドラムが存在しないこの世界は壊すに値する世界だと、自分の主張を裏付けたいから。

 

そう考えると、ピングドラムの正体はやはり「無償の愛」なのではないかなあと思ったりします。合ってるかな…答えはないからわからないぞ。

本当は高倉兄妹や苹果たちの関係に沿って考えていきたかったけど、気付いたら眞悧の話ばかりになっていたので少年少女たちのお話はまたいつか。 

 

 

余談ですが、桃果自身もたぶん「ピングドラム」の正体に気付いてないんだと思います。おそらく、無償の愛そのものを彼女は知っているけれども、「ピングドラム」が無償の愛であることには気付いていない。

 

例えると、 

眞「ドアの蝶番が壊れたんだけど…」
桃「ちょうつがい?」
眞「ドアと壁をつないでる金具のことだよ」
桃「えっ あれって蝶番っていうんだ!」

と、ピングドラムとこの蝶番に置き換えるとわかりやすいかも…(そうかな?)。

 

だから、桃果の意思を持つ(であろう)プリクリ様もいまいち「ピングドラム」の正体が何なのかはっきり言えなかったんじゃなかろうかと思うのです。

お久しぶりです

半年ぶりくらいになってしまった…。しばらく原稿やってました。

またちょいちょい記事更新していきたいです。

愛の象徴<輪るピングドラム考察>

愛の象徴・荻野目桃果。

 

放送当時、いや、放送終了してしばらく経過してからも、私は彼女をどう捉えたらいいかわかりませんでした。彼女は結局人間なのか、神様なのか。

 

そんなことを考えていた時、輪るピングドラムBD第5巻のオーディオコメンタリーに収録されていた、幾原監督の15話の桃果に対するコメントがヒントになりました。

以下、そのコメントの要約です。

・桃果を「愛のアイコン(象徴)」として登場させたかった。

・当初桃果は顔は出さない予定だった。

・人間的な表現はされず、神話の中の登場人物みたいにミラクルを起こす存在であると想定していた。

・しかし、15話の構想に辿り着いた際に、顔を出さずに(話を)やるのは無理だな、と思いキャラクター化した。

・15話(ゆりの回想)では比較的普通の女の子として描いているが、18話(多蕗の回想)では母性的なパーソナリティとして描いている。そこは印象を意図的にジャンプ(飛躍という意味か)させている。

 

なるほど、どうやら監督自身もかなり試行錯誤していたようなので、観ている私の解釈が定まらないのは当たり前の話なのかもしれませんね。

ところでこの監督のコメントから、私はユング心理学(分析心理学)で いうところの「集合的無意識(普遍的無意識)」および「元型」の話を思い出しました。

集合的某や元型の詳細はこちらのサイトや、Wikipedia(集合的無意識 - Wikipedia元型 - Wikipedia)を見て頂けたらなんとなくお分かりになるかと思うのですが、ざっくり言うと、個人が形成する無意識よりもさらに深層に存在する無意識領域、および人類が遺伝的に持っているある概念に対するイメージ、といったところでしょうか。

その集合的無意識における愛の象徴が、この作品においては荻野目桃果という少女として登場する。そんな印象を受けました。

 

話は少し変わりますが、一部世間の意見と齟齬を感じる点があったので以下メモ書き。

一部ネット上で、桃果の印象を「博愛の持ち主」と述べていた意見も見受けられたのですが、どうも私の中ではむむむ…?と思うところがありました。果たしてそうだろうか。念のため博愛という言葉の意味を調べてみると、

「博愛」は「すべての人を平等に愛すること。」と定義されているとのこと。(引用:はくあい【博愛】の意味 - goo国語辞書)

むむ…平等かな?桃果は果たして平等かな?

私が思うに、ゆりを救うためにゆりの父親、多蕗を救うために他の子どもたち、世界の大勢の人を救うために眞悧を犠牲にした桃果には、眞悧が言うように「全てを救えない」んですよね。それは平等に愛するというのだろうか。

じゃあ桃果の「愛」ってどんな愛なんだろう。

ここで監督のコメントにもあった母性という言葉を調べてみると、

「母性」は「女性のもつ母親としての性質。母親として、子供を守り育てようとする本能的特質。」とのこと。(引用:ぼせい【母性】の意味 - goo国語辞書)

うむ、確かに母性的な愛と呼んだ方がそれらしい気がする。

桃果にとって大切な存在であるゆりや多蕗を、自分の子どものように慈しみ守る。母性的な愛は、突き詰めて考えると自分の子どもを守るために他者への攻撃に転じる場合もあると私は考えています。何かなかったっけそういう話。

勿論、宗教的な意味で言えば博愛も母なる愛なのかもしれないけど、残念ながら宗教学にはそんなに明るくないのでここであれこれ述べるのは控えます。宗教的な観点からの解釈を聴きたい人は他の方に訊いてくれ。 

また、どうして桃果がゆりや多蕗を選んだのかについてはもう彼女の琴線に触れるものがあったから、としか言いようがないよね…。子どもの頃、友達に作るときってそんなに深く考えて友達にならないし。しいて言えば「居心地がいいか」ということは考えるかもしれないけどね。

 

こうして考えると、15話のサブタイトルは「世界を救う者」ですが、「世界」って別に全人類の存在する国際的な意味での世界ではなくて、一個人が認識するある範囲という意味での世界なのかもしれないな…。同監督の「少女革命ウテナ」も、実際のところ少女の世界を変革するお話だしな。

 

なお、15話のコメンタリーの締めくくりで、幾原監督はこのように述べています。(要約)

 神話の中の無償の愛、なんだよね。生きていたら普通の女の子だったであろうけど、死んでしまってるので彼女の神話性が強調されてみんなの中に残っている。

人間だけど無償の愛の象徴でもある、神様みたいな女の子。なんだろうなあ。私の中ではそういう感じで決着がつきそうです。

 

一個人としての荻野目桃果は彼女に接したことのある人しか知り得ないわけだけど、「愛の象徴」としての荻野目桃果は、もしかしたら誰の心にも飛び込んでくる存在なのかもしれないですね。