飴玉がりがり

輪るピングドラムを噛み砕く記録

こどもブロイラー<輪るピングドラム考>

ってなんだろうね。特に明言もされてないんでよくわからん。

 

…というのが正直なところではあるのですが、私の中では「心象風景」として解釈しています。

 

20話後半、陽毬からの手紙を受け取った晶馬は父・剣山にこどもブロイラーについて尋ねます。剣山はこう答える。「社会から見捨てられた子どもが行く場所だ。我々も手が出せないし、救えない。」そこに行った子どもたちは「透明になる」「何者にもなれない」と。

ここで晶馬が「死ぬってこと?」と尋ねていますが、剣山は否定も肯定もしてないんですよねえ。勿論、子どもにそんな直接的な回答をするのは酷であろう、と沈黙したのかもしれませんが。私の中では、ここで言う「死」は、一般的にいう肉体の死ではなく精神における死なのではないかと思うのです。

 

じゃあ「精神の死」ってなんだろうね。すごく抽象的。ここで18話でのこどもブロイラーのシーンを振り返りたい。桃果が多蕗を助ける際の、「多蕗くんは多蕗くんのままでいなきゃ」という言葉。粉々になったら、…仮定として精神が死んだら、彼は彼のままでいられないということ。

「自分らしさ」。また来ました抽象的な言葉。

多蕗の母親は、「才能」を愛し、才能を失った多蕗少年を見限った。少なくとも彼の眼にはそう映っていた。

「自分らしさ」とは、何が出来るか、よりも「心の在り方」と大切にすること。桃果は多蕗少年にそう伝えたかったのだろうなあと思うのです。

心の在り方かあ…。難しいなー!心の在り方については私もいまだに模索中です。それこそ個々人で在り方は異なるわけだから正解なんてないんだよね。何が出来るか、よりも何がしたいか、で考えなさいということなのかな。ただ、同じように「何がしたいか」という言葉によって眞悧は陽毬を惑わし、高倉家の崩壊へと導く結果になったんだよなあ…。いや崩壊の発端となったのは陽毬だけではないんだけどね。難しい。さじ加減一つということなのか。

 

しかし、実際社会に出てみると、「あなたは何が出来ますか?」といったことばかり尋ねられる。こどもブロイラーが単に心象風景ではなく、作中では現実に存在する施設・機関として登場するのは、内的世界と現実世界は地続きになっているという示唆でもあるのかなあと思っています。ピュアイリュージョン…(わかる人にはわかるネタ)。

 

ところで、こどもブロイラーにおいて透明な存在になることを精神の死と仮定すると、粉々になった後も肉体はどこかで生きているということになるんですよねえ。

その辺りの話はまた別の機会にでも。